使いづらい業務ソフトを、2年間使って得られたもの
業務ソフトは、使いづらい。
以前よりは使いやすくなってるし、そもそも自分も業務ソフトの開発に携わってきた。
それでもやっぱり、例えば「Googleマップ」のような誰もが使ってるスマホアプリとか、あるいは冷蔵庫みたいな家電とか、そういうものに比べると、業務ソフトはまだまだ使いづらい。冷蔵庫は何も考えなくても、コンセントを挿せばすぐ使い始められて、あとは自動で鮮度を保ってくれる。業務ソフトも、そのくらい使いやすくなるのが、理想だと思う。
※この記事は、okadaがfreee人事労務や透明書店の立ち上げに携わった経験も踏まえ、freeeのドッグフーディングの片鱗を記載しています。
自分で使えないから、使いづらい
業務ソフトが使いづらいのには、要件が複雑だとか、人によって必要な機能が異なるとか、色々と理由が挙げられる。ただそのうちの大きな要因のひとつに、「自分で使えない」ことがあるのではないか。
たとえばGoogleマップや冷蔵庫であれば、開発に携わる人全員が、日常生活で使える。自分たちの作ったプロダクトを、自分たちで使って問題点を把握する — いわゆる「ドッグフーディング」と呼ばれる手法が、自然と可能になる。
ドッグフーディングすれば、使いづらい部分に誰よりも早く、自分で気づける。そして今すぐ使いやすくしたい、という強い動機が湧く。ドッグフーディングは、特に新しいサービスをつくるにあたっては、とても有効な手法だと思う。
だが業務ソフトは、自分で使える機会が少ない。特に経理や人事労務といったセンシティブな情報を扱う業務では、なおさら使えない。たとえば給与計算をやるだけで、社員全員の給料がわかってしまう。気軽に試すには、なかなかハードルが高い。
そこで代替案として、さまざまな手法が模索されてきた。一般的には、ユーザーへのヒヤリングや業務観察といった、「ユーザーを介して、使いづらい部分を把握する」やり方がメジャーで、僕自身もよく活用してきた。様々なユーザーの現場を知ることで、幅広く課題を把握できるのがいい。
ただユーザーだって忙しい。同じユーザーにもらえる時間は限られているし、何度もインタビューをさせてもらうのは現実的ではない。何より、まだ顕在化していない課題を外から読み取るには、かなりの技術が求められる。ヒヤリングや業務観察は、知れる課題の「深さ」に限界があるように感じる。
だから本当に業務ソフトを使いやすくするには、常にドッグフーディングをやり続けることが必須だと思っている。そしてその考えは、僕自身のとある2年間の経験からきている。
2年間のドッグフーディングがもたらしたもの
2014年にfreeeに入社して以来、10年間様々なサービスの開発に携わってきた。ヒアリングや業務観察も何百回、何千回と繰り返してきた。ただ使いやすさを追求する上で、一番役に立ったのは、やはりドッグフーディングだった。
入社した年にリリースされた「給与計算freee」というプロダクトを使いながら、自社の労務担当を、2年間やってみたのだ。
前述の通り、給与計算という領域は本来ドッグフーディングしづらい。ただ当時freeeがまだ会社として黎明期で、バックオフィスの専任者がいなかったこともあって、幸運にも業務をやらせてもらえることになった。給与計算だけではなく、ありとあらゆる労務関連の仕事を担当した。PCだけで仕事が完結した環境から一転して、大量の書類の山に埋もれた。
他の仕事との兼務だったし、わりと大変ではあったけど、それ以上に大きな学びのある時間だった。そして当時の自社プロダクトでは、まだまだ労務は完結しないことを、身をもって痛感できた。
特に次の2点は、ドッグフーディングしたからこそ、得られた学びである。
学び1. 業務は毛細血管である
リリース当初の「給与計算freee」はシンプルな給与計算ソフトだったから、給与計算を楽にすることにフォーカスしていた。だが実際の労務の現場では、給与計算以外にもたくさんの業務が存在する。
「勤怠管理」や「年末調整」といった有名どころはもちろん、保険料を納付したり、入社した人から源泉徴収票を集めたり、健康診断やインフルエンザ予防接種の手配をしたり...地味で小さな作業が満載である。
労務の現場ではそういった無数の細かな「周辺業務」が網の目のように広がっていて、しかもそれらの周辺業務は、どれも有機的に繋がっているのだ。
たとえば従業員に子どもが生まれたら、まず従業員名簿を更新して、それから扶養手続きを提出して、給与計算に手当を反映して...という具合に、様々な業務が連鎖的に発生していく。
給与計算が労務の「大動脈」だとしたら、周辺業務はそこから生えた「毛細血管」だ。
人間の身体においては、毛細血管が血管の9割を占める。それと同じように周辺業務を全て合わせると、給与計算以上に大きな負担となる。毎月決まったスケジュールの給与計算と違って、周辺業務は不定期に突然発生するから、心理的な負荷も大きい。
僕はこういった感覚を、ドッグフーディングで初めて知った。考えてみれば「給与計算」とはあくまでソフトを開発する側が、勝手に設定したくくりに過ぎない。だがそれに囚われてしまっていて、ヒヤリングで周辺業務の話が出ても、「これは細かい話だな」と無意識にシャットアウトしてしまっていたのと思う。
またそもそも周辺業務のひとつひとつは微細だから、ヒヤリングされたユーザーも、いちいち全部をリストアップはできない。だから自分でやらない限りは、この「毛細血管の負担」になかなか気づかなかった。
労務の現場には、担当者が代々継ぎ足してつくってきた「秘伝のExcel」が存在しがちなのだが、これも単なる給与計算ソフトでは、部分最適しか実現できず、回収できない周辺業務がたくさん残ってしまうからだ。
この経験を経て「労務全体を全体最適するようなソフトをつくりたい」と思うようになった。そして2017年に「労務を一気通貫させる」というコンセプトで「人事労務freee」(現「freee人事労務」)へとリニューアルすることになる。
学び2.従業員が恐ろしくなる
労務をやっていると、従業員が「恐ろしい」存在に見えることがある。
給与というのは非常にセンシティブな存在だから、なにかミスがあったら怒られるかもしれない。怒られるまではいかなくても、不満やクレームを言われるかもしれない。普段は仲の良い同僚から、そういう指摘をされるのは辛い。それがとても恐ろしいのだ。
だから給与計算には絶対にミスがないよう、何度も何度も再確認をする。従業員に迷惑をかけるくらいなら、たとえ非効率であっても、自分の仕事の負担が増える方がよっぽどまし、という思考回路に陥っていく。
紙の書類に不備があった際は、訂正をお願いするのもしんどい。個人情報が詰まった書類を机の上に置いておくわけにもいかないから、席に帰ってくるタイミングをちらちらと伺う。他にも勤怠の入力をお願いしたり、採用担当に入社予定を早めに共有してくれるようお願いしたり、労務はとにかくお願いすることだらけだ。
ドッグフーディングをやる以前から、こういった話は聞いたことはあった。だがやはり話に聞くのと実際にやってみるとでは、大違いだ。
インタビューでこの課題に出会っても、「従業員とのコミュケーションが大変」という一言で片付けられてしまう。そしてそれよりも、「新しい業種の給与計算にも対応したい」といった、売上に直接的につながるような開発が優先されがちだ。
でも自分でこの「恐ろしさ」を体験すると、そこに潜む不安と孤独がわかる。感情が腹落ちする。絶対にこの解決を解決したいと思う。
そんなふうに感情を理解できることが、ドッグフーディングの大きな効用だと思う。サービスを使いやすくするにあたって、最も難しいのは「優先度を決める」ことであるが、感情が理解できれば、優先度をぐっとつけやすくなる。
この体験から、freee人事労務では「確認作業を楽にすること」「従業員とのやりとりの負担を減らすこと」を優先的な価値として定めた。
例えば年末調整ではペーパーレスで紙の書類のやりとりを極限まで減らす。勤怠に誤りがあれば、まずbotが従業員に知らせてくれる。
また給与計算では前月比をとっかかりに、「どの要素が変動して、給与計算に反映されているのか?」を簡単にドリルダウンして確認できるような機能も、今ではリリースされている。
どれも従来の給与計算ソフトにはなかったが、価値のある機能だと思っている。
ドッグフーディングの場をつくる
こうしてドッグフーディングは新しい価値に繋がっていくわけだが、もちろん万能ではない。ドッグフーディングにも、2つの問題がある。
1つめは、ペルソナが「自分」に寄りすぎてしまい、ユーザーの課題から乖離してしまうリスクがあることだ。しかしこれはさほど大きな問題ではない。
ドッグフーディングは理解の「深さ」を追求するものだから、リサーチや業務観察など「広さ」を担保する手法と併用することで、十分バランスは取れる。このリスクを恐れてドッグフーディングをやらないよりは、よっぽどやった方がいい。
2つめの問題は、冒頭に述べたように、そもそもドッグフーディングする機会が少ない、ということだ。こちらの問題の方が深刻である。freeeという会社も、僕がドッグフーディングをしていた数十名〜数百名規模の時代から、1700名規模にまで拡大した。それでも会社としてはドッグフーディングを続けていて、日々さまざまな気づきが得られている。
ただ、開発担当者が手軽にバックオフィスをやってみる、というわけにはいかなくなった。上場企業になったから、管理上の制約も多く、ドッグフーディングの機会は限られている。
しかし機会がないからと言って、諦めてしまうのはもったいない。ドッグフーディングできる場がなければ、作ってしまえばいいのだ。
そう考えて2022年11月、「透明書店株式会社」という子会社を立ち上げた。この子会社は現在、東京・蔵前にて実店舗の本屋を経営している。経営には数名が携わり、バックオフィス業務は親会社のfreeeから切り離されている。
数名規模の子会社なら、格段にドッグフーディングしやすい。しかも書店は数千種類の商品を在庫として扱う店舗ビジネスだ。上場IT企業のfreeeとは、真逆の存在であり、これまでなかった知見を得られるはずである。
透明書店では現在、「くらげ会」というバックオフィスチームを組んで、ドッグフーディングを行っている。くらげ会はfreeeのプロダクトマネージャーやデザイナーから構成され、メンバーが定期的に入れ替わる仕組みができている。
経理や労務、販売管理や在庫管理をドッグフーディングしたり、POSレジなど足りない部分は他社ソフトと連携しながら使うことで、多くの学びが得られている。メンバーに聞いてみると、その中でも最も有用なのが、やはり感情の理解だという。
「納品書と請求書が合わない!」という焦りとか、キャッシュフローが危うくなった時のひりつきとか、苦労してようやく黒字化を達成した時の喜びとか。単なるいちソフトのドッグフーディングを超えて、スモールビジネス経営の、解像度をあげる場として、くらげ会は機能している。もちろん本物の経営者の気持ちがわかるわけではない。でもやっぱり、やらないよりは、よっぽどやった方がいい。
このくらげ会からは、実際に複数の新機能が生まれている。また社内で新サービスが出る前に、いち早くドッグフーディングしてフィードバックを得る場所として、活用もされている。
今後もくらげ会を起点に、さまざまな価値が生まれて欲しいと願っている。
業務ソフトが冷蔵庫になる日
さて、かつて「給与計算freee」として誕生し、ドッグフーディングを重ねていまは「freee人事労務」となったソフトは、2024年10月に10周年を迎えた。僕はもうその開発には直接携わってはいないが、プロダクトは日々急速な進化を続けている。
freee人事労務は、業務の「毛細血管」まで対応すべく、雇用契約や健康管理、シフト管理や福利厚生にも領域を広げ、それらが全てワンマスタの従業員名簿と連動している。
「従業員へのお願いが怖い」という負担を解決すべく、「お願いいらず」をキーワードに、AIなども駆使しながら、申請・チェックフローは進化を続けている。
そして次の10年には、「人と組織の可能性を引き出す“ピープル・エンパワーメント”」を新ビジョンに掲げた。
10年前、シンプルな給与計算しかできなかった状態と比較すると、まるで別のサービスだ。使いやすさも、格段に進歩している。
ただ、敢えて書こう。やっぱり冷蔵庫ほどの使いやすさには、まだ至っていない。だからどれだけプロダクトが進化したとしても、ドッグフーディングの必要性は依然として変わらない。むしろ対象領域が広がった分、その重要性は増していると思う。
自分で使って、自ら痛みを知り、意思を持って修正していく。
この開発プロセスを愚直に続けることで、きっとそこまで遠くない未来に、冷蔵庫みたいに使いやすい業務ソフトが生まれるだろう。
そしてそんなソフトを誰もが使えるようになったら、スモールビジネスは、本当の意味で自由になれるはずだ。
10年前、労務書類の山に埋もれたあの頃を思い出しながら、そんなことを考えている。